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徳川2代将軍秀忠の庶子で秀忠にとっては4男で9番目の子供。
大奥の帰り大乳母の元に立ち寄っていた秀忠はそこに仕えていた静を見初める。
やがて懐妊しかし初めての子供は流産させてしまう。秀忠は静を呼び寄せ2度目の解任となった。正室お江の嫉妬深い行動に慄いていたお静に力強い見方が現れる。
武田信玄の次女で穴山梅雪の妻だった見性院である。秀忠は見性院に静を頼んだ。
見性院は徳川家康から領地をいただいていた。武蔵国足立郡大牧村現在のさいたま市
緑区東浦和(大間木)である。見性院は懐妊した静をこの地の代官屋敷にかくまう。
その時静は隣の大宮宿氷川神社に祈願文を奉納する。氷川神社は静の願い通り「御台の嫌がらせなく」「安産」で「男の子」を授けた。
長野県伊那市に「保科正之を大河ドラマにをつくる会」がある。現在署名は57万人だそうだ。そのホームページがある。
その中の資料にわかりやすく書かれている。
天智天皇の死因については病死説と暗殺説がある。一般的な歴史書では正史である日本書紀の記述による病死説を採っているが、果たしてそれが正しいのか。
また、暗殺説は誰が何の目的で暗殺したというのだろうか。