内容は配布資料を参考にしてください。
「江戸城」(別名千代田城)
①鎌倉時代平家秩父一族の流れを組む江戸
重継が館を構えたのが始まり。
②1457年扇谷上杉の筆頭重臣太田道灌が江戸城築城
③徳川家康が江戸全体を土地改良江戸城も大修復(建て直し)
④2代目秀忠が隣に天守を新築。3代家光も天主を建て替えた。
⑤天守は4代家綱の時代に火事で焼失 以後再建されていない。
平安末期から鎌倉初期
桓武平氏の末裔が関東武士団となる。その中の秩父一族が武蔵国(さいたま東京千葉神
奈川)の 武将になっていく。
豊臣時代~江戸時代
小田原攻めの功により秀吉が家康に与えたのは駿河三河遠江を取り上げ関東一体を与える言うものだった。拒めば改易になる例があった。
どこに拠点を置くか小田原か鎌倉か等候補はあったが秀吉が進める江戸に新規活路を見出すことにした。まず始めたことは土地改良だった。
湿地には川や運河を掘って水が海に流れやすいようにした。平川を堰き止め流れを変えたのが神田川。
樹を伐り、草を刈り、根を掘り出し、神田山を崩して土を盛った。
遠浅の海を利用して新たに海を埋め立てた。
江戸時代に入ってようやく都市として体裁が整うようになってきたが、
それでも川が作った「谷」があり、六本木ヒルズのある狸穴(まみあな)は「狸の巣のありそうな草っ原」で、
赤坂のそばの溜池山王には大きな「溜池」があった。
「大手門(おおてもん)
旧江戸城の正門で、慶長12年(1607年)藤堂高虎によって1年3ヶ月ほどで完成 した。
元和6年(1620年)の江戸城修復に際し、伊達政宗、相馬利胤の協力によって現在の様な桝形形式(ますがた)の城門になったといわれている。
大手門は明暦3年(1657年)1月の江戸大火で類焼し、元年11月に再建 された。
その後も地震震災の被害に会い再建されたが昭和42年復元工事が完成し、高麗門等
が修理され、桝形形式の大手門が再建された。
本丸までの門
1、大手門は三百諸侯が威儀を正して登城した門
2、大手下乗門(大手三の門)
3、大手中ノ門
4、書院門(中雀門)を経て本丸玄関前に至る。
大手三の門
二之丸と三之丸を繋ぐ「下乗門」跡(三の門とも呼ばれる)。
「切込みはぎ」と呼ばれる技法で積まれています。また、石垣に使われているのは、瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩で、西国大名から献上されたと考えられます。こうした石垣は、大名の登城路や天守台主要な部分だけにみられるものです。
中之門
石垣は江戸城の中でも最大級の巨石(35t前後)が使用され、目地がほとんど無い、整層・布積みの石垣です。
書院門
この門は、文久3年(1863)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼し、石垣の表面は、熱によりボロボロになっています。中雀門を抜けると、現在は広々とした広場となっていますが、かつてはここに広大な本丸御殿が広がっていました。現在、二本のケヤキが門柱のようにそびえている部分が、ほぼ御殿の正面玄関にあたります
本丸跡
天守台
江戸城天守は、1606年の家康、1622年の秀忠、1638年の家光という将軍代替わりの際に築き直された将軍権力の象徴でした。家光の天守は、ほぼ現在地に建てられた黒漆塗りの五層構造の建物で、高さ64mに及ぶ建物でしたが、明暦の大火(1657)によって焼失しました。翌年、加賀藩前田家が高さ約12mの花崗岩(かこうがん)でできた天守台を築きますが、城下町再建を優先するために天守の建設は断念された。本丸台地の最高部(標高25m)
江戸城の天守閣は、慶長12年(1607)家康の造った慶長度天守、元和9年(1622)秀忠元和度天守、寛永15年(1637)家光寛永度天守と3回建築されている。特に三代将軍家光の代に江戸幕府の権威を象徴するわが国最大の寛永天守閣が完成した。
倉庫として使われ、防御の役割も担っていた櫓(やぐら)
大櫓であり司令塔であった天守閣が火事で全焼してしまった後は、この富士見櫓が天守閣の代用とされていました。
この門は、文久3年(1863)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼し、石垣の表面は、熱によりボロボロになっています。中雀門を抜けると、現在は広々とした広場となっていますが、かつてはここに広大な本丸御殿が広がっていました。現在、二本のケヤキが門柱のようにそびえている部分が、ほぼ御殿の正面玄関にあたります。
本丸跡
天守台
江戸城天守は、1606年の家康、1622年の秀忠、1638年の家光という将軍代替わりの際に築き直された将軍権力の象徴でした。家光の天守は、ほぼ現在地に建てられた黒漆塗りの五層構造の建物で、高さ64mに及ぶ建物でしたが、明暦の大火(1657)によって焼失しました。翌年、加賀藩前田家が高さ約12mの花崗岩(かこうがん)でできた天守台を築きますが、城下町再建を優先するために天守の建設は断念された。本丸台地の最高部(標高25m)