歴史めぐりの旅について梶原副部長から説明。佐倉城跡と成田山新勝寺にコース変更。
ボランテアガイドは旧堀田邸だけお願いできた。。
佐倉城跡、国立民族と歴史の博物館、成田山新勝寺については時間が合わなかったりガイドの人が不足でお願いできず部長がガイドを務めることにした。
佐倉城跡について。
千葉県は阿波の国から麻の生産地を求めて訪れたのが始まり。総国といわれ上総、下総、安房の3国となる。武蔵の武と下総の総をとって総武線。
ちなみに群馬と栃木はもとは毛野国 上毛野 下毛野 から上野 下野になった。両国を結ぶ線は両毛線。
大大名であった上総広常が頼朝の粛清にあって滅亡すると千葉氏が上総、下総を収めた。北条、山内上杉、扇谷上杉の時代になると千葉城(猪鼻城)は廃城にして佐倉の本佐倉城へ移った。時代が変わって室町時代に入ったら佐倉城は千葉氏の一族鹿沼氏によって築城された。さらに時代が変わり徳川家康が江戸城に入ると江戸城を守る東の城として家康の家老 土井利勝によって跡地に新たに築城された。
佐倉城は千葉県でただ一つの100名城 角馬出跡が有名。
(転載自由画像)
佐倉城角馬だし(平川撮影)
成田山新勝寺について
平安期、天皇より命じられ、御護摩祈祷によって、将門の乱を収束させたという開山縁起を持ちます。寒長大僧正により開山以来、当山では一日も欠かさず御護摩祈祷を続けていて毎日、多くのご参詣の皆さまの悩みや願いごとの成就を祈っている。
ご本尊は不動明王 釈迦が悟りを開くべく菩提樹の下に座ると多くの魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せた。不動心の釈迦は我ここを離れずと魔王を追い返した。不動明王の憤怒の姿はその時の釈迦の内証を現している。右手にあらゆる心の迷いを切り取る利権。左手に物事を正しい方向へ道びく羂索という縄 不動心を現す盤石。あらゆる障害を焼き尽くす炎を背負っている。
山岡荘八の徳川家康の感想を述べる
講師。今回は2回目。
三方が原戦いに迫りました。
信玄が迫って来る。苦悩する家康。
浜松城を素通りする信玄。たまりかねて出陣する家康を武田の大軍勢が待ち構えていた。
織田の援軍は3000.これは負け戦になったので少ない記載となったかもしれない。
大敗北を期した家康は”顔をしかめた辛そうな姿”を残した。
家康が31歳で味わった大きな屈辱 それが三方が原であった。
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)[