1、桶狭間(1560年)後美濃攻めへ展開する。
○斉藤道三が(1556年)息子の義竜に敗れてから何度か美濃を攻めるが義竜は西美濃3人衆(安藤守就、稲葉一徹、氏家直元)をまとめ意外と強く信長は美濃を攻めあえぐ。
○義竜政権7年で「らい病」により死去。13歳の斉藤龍興が家督を相続する。
これを機会に信長の本格的な美濃攻めがはじまる。
2、前田利家 若き日の失敗~帰参をかけて森部の戦いへ参戦。
○信長が可愛がっていた拾阿弥を殺害し追放となる。
○桶狭間へ無断参戦。無視される。
○美濃攻め 森部の戦いで帰参叶う。出世の松。
3、信長西美濃を攻める。
○当初は西美濃3人衆 東美濃衆が龍興を支える。
○その一人安藤守就の娘婿が竹中半兵衛。
4、第3戦 新加納の戦い 竹中半兵衛が世に出る。
○信長手痛い敗戦 そこには若き日の竹中半兵衛がいた。
○三国志の「十方埋伏せの計」で信長を破る。
○龍興は旧臣を軽んじ仁徳のない斉藤飛騨の守を重用し女性、酒乱、無秩序で半兵衛は飛騨の守の兵に小便をかけられた。
○これに怒り半兵衛稲葉山城乗っ取る事件が起こる。これを機会に斉藤龍興から家臣が離れていく。
○藤吉郎が三国志の「三顧の礼」で半兵衛を説得。信長から二人の与力と共に秀吉に与
えられ軍師となる。
○藤吉郎、半兵衛の調略という名の戦いが始まる。
○半兵衛の死
黒田官兵衛が謀反を起こした荒木村重を説得に行き土牢へ入れられる。信長は謀反と
勘違いして人質の息子松寿丸の殺害を命じる。半兵衛がこれを匿う。有岡城が陥落し
官兵衛が救出された。秀吉から半兵衛が命がけで松寿丸を救ったことを聞く。ことの
いきさつを知った官兵衛は動かぬ片足を引きずりながら秀吉の裾にしがみつく。
「殿!殿!半兵衛殿に、半兵衛殿に会わせてくだされ!!」と。秀吉はうつむいたま
まであった。この時すでに半兵衛はこの世の人ではなかった。秀吉から半兵衛の軍配
が渡されます。「あとは頼んだぞ」という半兵衛から官兵衛への無言の遺言であっ
た。
6、木下藤吉郎 美濃攻めの要となる墨俣一夜城を築く。
○奇抜なアイデアで築城。そこには木曽川流域に精通していた蜂須賀小六がいた。
○現代のプレハブ工法で途中で加工し墨俣まで運んで短期間(数日)で組み立てた。
それゆえ一夜城と呼ばれた。
7、信長斉藤龍興を追放 龍興は伊勢長嶋へ逃亡。稲葉山城を奪取。
○「天下布武」とは武力で天下を治めるという意味だがその原文は?
○美濃攻略終結時から天下を意識しこの印を使いだす。
○稲葉山城を岐阜城と改める。岐阜とは高僧沢彦宗恩が選んだもので、「小高い山」という意味で岐山の麓で興り後に中国を統一した古代中国の周王朝の故事にちなんだもの。
8、お鍋の方との出会い。
○お鍋の方は、六角承禎の家臣高畠源兵衛の娘で、小倉右京亮実房の妻。実房は古くから信長と親しく信長上洛の帰路では八風峠越えで織田軍の水先案内を務めた。金ヶ崎の戦いでも千種越えに協力して織田軍の岐阜城帰還を助けたが、これが承禎の怒りを買い攻め滅ぼされ二人の息子を人質に取られる。
〇お鍋の方は家臣と共に岐阜城の信長を訪ね息子の救出を願い出る。信長は承諾し蒲生家から人質を奪還する。
○後にお鍋の方は信長の側室となり、お鍋の方は岐阜に赴き、やがて信長の寵愛を受けるようになり二男一女をもうけた。
○連れ子の甚五郎・松寿兄弟も織田家に仕えた。
〇信長の快進撃
〇美濃平定し京都へ 畿内を平定
〇伊勢平定
(姉川の戦いでは袋の鼠となりながらも奇 跡の生還)
〇浅井、朝倉を滅ぼし
〇松永久秀、三好吉継を滅ぼす。
〇一向一揆を平定
武田信玄との対決となる。
1、埼玉の歴史(梶原博)
江戸時代から幕末、明治へと時代の流れのなかで武蔵国は埼玉へと姿を変えていく。
その様子を解説します。
2、第1回歴史めぐり 勉強会 旅のしおり紹介(平川敏彦)
忍城と歴史博物館 埼玉古墳と史跡博物館
9月27日(土)当日の行動予定を説明をします。
3、文化祭の展示物について(深堀政喜)