応天門の変
平安時代に繰り返された藤原氏によるライバル貴族排斥事件、その一連の事件の一つとして応天門の変は大納言・伴善男放火犯として流罪になったと記されている。
応天門とは
大内裏の内側にあった門で朝廷内での政務、重要な儀式を行う場であった朝堂院の正門であった。
「弘法にも筆の誤り」
応天門の扁額は空海の筆によるものと言われている。
空海が応天門の扁額を書いた時「應」をまだれを雁だれにして点が抜けてしまったので筆を投げつけて書き足したという言い伝えが残っている。
応天門は非常に重要な場所にある門で放火は死罪に値する。
現在の応天門
大火で焼失してしまい現在の応天門は平安京の応天門の5/8野スケールで模したものである。また扁額も空海が書いたものではない。
事件の概要
1、事件調査を行った伴善男は左大臣 源信が犯人だと告発する。
2、太政大臣藤原良房が清和天皇へ奏上し源信は無罪となる。
3、伴善男は犯人という密告があり善男は流罪となった。
4、善男は無罪を主張しながら死去した。
真犯人は不明のまま藤原氏に関わる権力争いの事件となった。