江戸時代の長州藩における藩医についてその時代背景と医者だった人についての説明があった。
石高と藩医の収入階級などの説明。
長州から幕末の志士が多く出た理由は毛利が大阪の陣以降大きく禄高が減少し貧しい武士が多く発生し
その武士が志を高くいろいろなことを学んだことにある。
熱心に説明を聞く部員。本日は30名の参加であった。
大村益次郎も医者の家系であった。
其の他の医者についても詳細な説明があった。
朝鮮出兵の理由として言われていたこと。
1、信長時代からの民国制覇の思想。
2、武功派の不満解消策としての領土拡大。
3、貿易の拡大
4、鶴丸死去後の生きる望み。
5、単なるもうろく。
九州平定後に対応に迫られたもの。
1、キリシタン大名 大村純忠が領土をイエズス会へ与えていた。
2、巨大なポルトガル船に驚いた。
3、ポルトガル商人が日本人も人身売買をしていた。
4、キリスト教布教の先に見え隠れするものがあった。
世界は大航海時代を迎えコロンブスがアメリカ大陸を発見しマゼランが世界一周を果たしスペインがポルトガルを制し西回り東回りを制覇アメリカをもわが手にしていた。 スペインはキリスト教を布教しその先は世界戦略を企てていた。秀吉はそれに気が付きキリスト教禁教令をだす。 東アジアを制したいスペインはフィリピンに拠点を置き日本と明国制覇を狙った。 明国がスペインによって制覇されスペイン、明国、朝鮮の3か国によって攻められたら日本は負けると思った秀吉は、最初にスペインと同盟を結び、明国を攻めようとしたがスペインから拒否された。 秀吉はスペインより先に明国を制覇しようと考えた。朝鮮へ日本への帰順をして道案内をせよと使いを出すが明国の属国であった朝鮮は拒否する。 ここで出兵を決意。「従わなければ成敗する」と出撃命令が出る。
遠藤周作作
「宿敵」上下巻
小西行長と加藤清正を宿敵として朝鮮出兵から関が原迄を書いた小説。 小西行長はキリシタン大名。外交、弁舌。 妻は細川ガラシャの付き人 いと。熊本城の南の宇土城城主。加藤清正 日連宗徒。武功派。秀吉からキ リシタン廃止令が出るが小西行長は面従腹背。
朝鮮出兵は小西行長に一番手を命じる。小西は従わない朝鮮に対し「日本王になった祝いで来日を要請」秀吉に対しては「朝鮮は帰順した」とうそをいう。従わない朝鮮に苛立ち秀吉に「朝鮮は心変わりをした」とまたしてもうその報告。ついに出兵。文禄の役。
戦いは膠着状態になり日本軍は撤退する。秀吉には「相手は降伏した」と報告。
秀吉は明の使者と謁見。自分の主張が全くと於ていないことに激怒。2度目の出兵(慶長の役)となる。小西行長と妻 いと は秀吉の死が早まる策を講じる。
「醍醐の花見」
1300人の招待者で秀吉の最後の栄華「醍醐の花見」が開催される。
秀吉は茶室茶屋を一軒一軒訪れた。行長の妻 いと も秀吉に茶と香をふるまった。「よい香りだ」と胸いっぱいを香を吸い込んだ。翌日から秀吉は「疲れた」と言って床に伏してしまった。いとの差し出した香壺には五臓六腑をおかす沈駄羅という毒が塗りつけられていた。秀吉は急速に老衰しこの日から5カ月後朝鮮出兵から2年後に死去した。
秀吉の死の知らせを聞いた行長は「いと・・・」と妻の名を呼びむせび泣きした。
キリシタン大名でありながら秀吉には面従腹背。得意の外交弁舌を発揮できず交渉がうまくいかない。その苦しみからやっとで解放される。という安堵感で
秀吉は「醍醐の花見」から5か月後に死去する。
そのあまりにも早い老衰、衰弱、死去であるがゆえにヒ素または沈羅駄による毒殺による暗殺説はついて回った。
遠藤周作の「宿敵」では小西行長の妻、歴史ミステリーでは「前田利家」がキリシタン大名であるがゆえにキリシタン弾圧に対する抵抗として暗殺した、などの説がある。
著書名 宿敵 著者名 遠藤周作 出版元 小学館 転載許可