本日の講師 神田芳男氏は山岡荘八の「徳川家康」を数年おきに数度読んでいるそうです。
徳川家康の位牌の紹介。家康は死ぬ半月程前に、本多正純、南光坊天海、金地院崇伝などをよび、「自分が死んだら、遺骸は久能山におさめ、葬儀は増上寺で行い、位牌は三河・大樹寺に立て、一周忌が終わったら、日光山(栃木県)に小さな堂を建てて、ここに神として祭れ、自分は、関八州の守り神になろう」その通り1年後には日光へ移された。
位牌は大樹寺。ここには歴代の等身大の位牌がある。
家康の母 於大の方
徳川家康の生母「於大の方」は、14歳のとき、岡崎城主松平広忠に嫁ぎ翌年竹千代(後の家康)を産みます。その後政略的に離別させられ、坂部城主久松俊勝に再嫁します。
於大の方は、家康を生んだ後15年間阿久比の地で暮らした。
家康に対しては音信を絶やすことはなく、心のこもる慰問の品を送り続け、少年期の家康の心の支えとなった。関ヶ原の合戦で家康が勝利し天下の実権を握った2年後、京都伏見城で没した。
岡崎を去る於大は17歳という若さであったがご家来衆が大勢泣きながら送って きたが、国境で皆帰され、村の百姓衆に輿をかつがせたということ。若いのに、情をよう心得たお方であった。
と「徳川家康」第1巻の朗読をする講師。
名古屋城は徳川家康が築城。
那古野城(なごやじょう)から名古屋城へ
戦国時代に尾張国愛知郡那古野(現愛知県名古屋市中区)にあった日本の城。今川氏親(今川義元の父)築城。織田信秀が計略により今川氏豊を追放して城を奪い、拠点を置いた。那古野城という城名はこのとき付けられたともいわれ信長生誕のしろといわれている。
関が原後、徳川家康が九男義直のためにまた東海道の要所として、また大阪方への備えとして名古屋城として天下普請によって築城したとされる。
以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。
(2014年平川撮影)
(平川撮影)
鎌倉を攻めて幕府を倒した源氏の流れをくむ新田義貞
栃木の足利尊氏 群馬の新田義貞 ともに後三年の役で有名な源義家の子孫です。その二人が鎌倉攻防の際稲村ヶ崎にて押し寄せる波を鎮めて新田の兵を通したまえと黄金の太刀を海に奉納するという儀式ですが史実ではありません。「太平記」での物語です。 がしかし 奇蹟は起き新田軍は鎌倉へ進撃し鎌倉幕府を倒します。後醍醐天皇の建武の新政が始まると足利尊氏と戦うことになり1進1退ではあったが箱根で敗退京都で勝利九州へ逃れた尊氏は別の天皇をたて錦の御旗のもと京都へと迫ってきて湊川の戦いで楠木正成は敗死 新田も逃げるがついにある晴れ間の日上野の国の晴天に似た景色を見に出かけた先で相手の襲撃にあい会えない最後を遂げた。明治になり新政府は南朝を正当な天皇との認識を発表。楠木正成、新田義貞は贈正一位を贈られた。(ちなみに足利尊氏は贈従一位 徳川家康は贈正一位)
(転載自由画像)
埼玉が生んだ偉人の一人 渋沢栄一 実は徳川慶喜の弟 徳川昭武とともにパリの万国博覧会へ参会しヨーロッパ各国へ親善訪問してパリへ留学しています。二人の人生を決定したのはこのパリ万博へ参加したことだったといわれています。 ヨーロッパ滞在中に二人が得た知識は帰国後の日本の発展に大きく寄与していきますが二人の人生は大逆転してしまいます。
(八王子寺院 信松院の松姫像)
(平川撮影)
織田家と武田家の政略結婚の相手として12歳信忠と7歳松姫は婚約をする。結婚に向け豪華な結納の品が交わされ、松姫は躑躅が館に別院を建立し二人は文の交換をして恋が芽生え嫁ぐ日を心待ちにしていた。
信玄が徳川領へ侵攻すると信長は3000の援軍を出す。これに怒った信玄は織田と縁切りになり二人の婚約は破棄されてしまう。
信玄の死去 武田勝頼の家督相続 そして武田家滅亡を背景に松姫の運命は大きく転落する。
設楽が原の戦いで大敗した武田勝頼は臣下の裏切りで田野で自刃
松姫は編み笠姿で北条の地 八王子へと逃避行を続ける。
信忠は必死に松姫を探し「改めて妻に迎えたい」という使者を送る。
松姫もそれにこたえ秀忠のもとへ行こうと迎えを待つ。そんな松姫に届いたのは本能寺の変の便りでした。信忠は二条城で自刃してしまいます。
松姫は信忠の 信 松姫の 松をとって 信松尼 という名で出家し信忠の冥福を祈ります。